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地球は暴走温室効果の瀬戸際

地球は暴走温室効果の瀬戸際

七章 新文明の建設のために

七章 新文明の建設のために

人は生活の基盤をその命の源である大地から切り離され、社会中で高度に専門化され細分化された職業に就く事でしか、生活の糧を得る事でしか出来なくなってしまった。その為に人は自身の良心にさえ背を向けてさえも物を作り続けあるいは破壊し続けなければ生きて行けない社会の枠組みの中に組み込まれ、身動き一つ出来なくなってしまったのです。その社会のシステムが膨大な量の廃棄物を生み出し環境を破壊し、生活に必要な資源を浪費しそして枯渇させつつある。
人類がこの地球で生き続ける事が出来るかどうかは、この社会の分離分別の行き過ぎを正し、人と大地のつながりを再び取り戻し、物を作り続けあるいは破壊し続けなければ生きて行けない社会の枠組みから人々解き放ち、それと同時に高度に専門化された業務も遂行出来る様な、社会を建設する事が可能かどうかにかかっている

分離分別の無い社会、あるいは境界のない社会とはどんな社会

では人類が進むべき分離分別の無い社会、あるいは境界のない社会とはどんな社会かでしょうか。現在の文明の社会的な混乱の源は、都市の形態と恐竜時代の繁栄していた時代を想わす程に、都市及び国家の官僚組織を初め企業や、あらゆる組織の巨大化の肥大化にあると考えている。
都市および官僚組織を形態的に転換し、ホロニックな形態の組織に転換を計る事で、解決する事が可能であると私は考えている。

現代文明における諸問題の根源は都市の形態そのものの問題

現代文明における諸問題の根源は都市の形態そのものの問題であり、現代文明の象徴である東京やニューヨ-クなど現代世界のメガロポリスは、エネルギーを浪費し資源の回収効率が極端に悪く、永続的に維持する事はほとんど不可能な形の都市形態であり、でこのまでエネルギーや資源の枯渇とともに巨大な廃墟になるか、あるいは分割し共同体型の都市へ再開発しんければ存続する事は出来ないだろう。
それでもこの形態の都市を無理に存続させようとすば文明の寿命をさらに縮め、人類の生存そのものを危うくする。都市は可能な限りエネルギーや資源の使用を節約するため、都市の形態そのものを根本から変えなければならない
化石燃料と自動車を可能な限り使用しなくても良い都市と社会の形態にし、人間の移動距離も出来るだけ少なく、人力だけで移動出来る範囲で人間が生きて行くための全ての事が出来る都市造りを前提とし、そのため都市の大きさは人が徒歩か自転車で移動出来る範囲にコンパクトに集中し、エネルギーも食料もその全てとは言わないまでも農村からの食料の供給に全てを頼るのではなく都市自身が自給可能な形態の共同体都市に作り替える必要がある。
最もゴミなど廃棄物を出し資源の浪費をしているのは建設業界
現在の社会において最もゴミなど廃棄物を出し資源の浪費をしているのは建設業界であり資源を浪費しない建設システムの開発がのぞまれる。未来の共同体都市における建造物構造物は取り壊しと再循環を前提に設計されなくてはならない。
その建造物や構造物はそれ自身に生命のシステムを取り入れなければならない。生命体はいずれも散逸構造をもっており、そのからだを構成する物質は毎日入れ替わっているが、生きている限りシステムは維持され見かけ上はなんの変化も見られない。都市を構成する建造物も構造物もその構成する部品を取り替え修理する事が可能なシステムを採用するなら、見かけ上半永久的に維持する事が可能な建造物や構造物ができあがる。

資源やエネルギ-はその共同体の中で極限まで循環再生

これからの社会において使用される最終的には資源やエネルギ-はその共同体の中で極限まで循環再生されほぼ自給自足とならねばならない。しかし既存の都市の再開発には膨大な費用と時間がかかる。都市の再開発だけで現代文明における問題を解決する事は難しいだろう。
そのためそれまで人の住めなかった山間丘陵地や住む人の少ない過疎地が新しい形態の都市の建設地とされるべきだ。
人が住む地域やあるいは教育の為の場として活用される。保養やヒーリングのためのあるいは宗教団体に近いような共同体都市になるだろう。そして人は大地とのつながりを再び取り戻すことができるだろう。これからの方向は各職種の境界は曖昧になり消滅し統合化される。
人々は自らの専門とする職業の他に共同体のための仕事を持つことになるだろう。専門とする仕事で失業する事になっても共同体の仕事をするだけで基本的な生活は保障されるシステムが作られる。
共同体における仕事は教育や社会福祉における業務の他にリサイクルシステムや農地など食料の生産設備の維持管理や周辺地域の緑地や山林あるいは河川など維持か行われる。
最終的にはその都市に住む人間のほとんどは、コミニティの機能を維持するためにのみ、労働に就く事になるだろう。失業と貧富の格差、過密と過疎、高齢化と医療、福祉、教育等現在の文明で解決できない問題のほとんどは解決するだろう。

脱工業化社会とは太陽の恵みだけで、人間が生き続ける事が出来る社会

脱工業化社会とは情報化社会とか経済のソフト化を成し遂げた社会の事ではない。私だけの解釈だが、太陽の恵みだけで人間が生き続ける事が出来る社会、人類が進むべき究極の社会を、実現する事が出来た社会の事である。
しかしそれは数百年前の農耕社会あるいは原始共産制社会に戻れという事ではない。高度な文明と高度な社会福祉を維持しつつ、低エントロピー化を成し遂げた社会の事である。


大都市の機能をそれらの共同体に分けてからそれらの外交防衛以外の、国家の全ての機能を分散して与え中央官庁を解体し、共同体都市に分散してしまう。中央官庁が形の上で無くなっても、共同体が作る電子のネットワーク上には、中央官庁も政府も存在出来る。国家的な、プロジクトを、実行する必要が有る場合は、ネット上の官庁は、各共同体に予算を少しづつ出してもらって、国家的なプロジェクトを実行する事になるだろう。
各共同体は予算の一定比率は国の為の予算とし、その配分の決定権は、共同体の側に置いておき、納税者が直接プロジェクトに金を出す方が良いと考える。世界を単一の市場とする経済体制は、それぞれの国の一部の地域だけに取引は限定されたものとなる。江戸時代の長崎の出島の様な形態で、既存の大都市は自由貿易都市とされるべきである。ここでは必要最小限のものを除いてあらゆる規制は撤廃され、世界との経済的な取引が行われるだろう。
そのまわりを多数のコミニティ型の都市が取り囲み住居や教育と福祉の業務を受け持つ。
国内の大部分の地域の経済は江戸時代のような地域的な自給自足の経済となるが、高度な文明は質的には変わるが維持される。

このまま経済的成長を続ける事は不可能、政策を転換し、新しい社会への道を開かねばならない。

大家族制と未来の共同体社会 産業革命以後先進国を中心として好不況の波は有ったが、経済的な成長を続け現在では東アジア諸国やかって西欧列強の植民地だった東南アジアや中国やインドでさえも、急速な経済的な成長を始めている。開発途上国はまだしも、先進国はもうこれ以上の経済的な成長を続ける事は、エネルギーや資源の制約から、物理的に不可能な事は誰にも分かっているはずなのだが、日本等の先進国は経済的な成長刺激策を取り続けている。
しかしその様な政策によっても、どれ程も実効が上がらず、財政の赤字のみが増大し、近い将来にはわが国は、四百兆円を上回る国の借金を国民が背負う事になる。政府はどの様にしてこの借金を返済するつもりで有ろうか。政府が取れる政策は限られて来る。増税と社会福祉政策の切り捨てそれが、不可能ならインフレ政策しかない。何れにしても国民にとって良い事は何一つ無い。
これまでの様に政策を取り続けようとすると、ますます傷口を深めてしまうのが結果になる。 現在は文明の転換点に来ているのでこの様な事が起こるのです。
今までの道を進む事はもう出来ない。ここは政治家や担当省庁が思い切って政策を転換し、新しい社会への道へ駒を進めるしか無いのだが、この事が分かっていてもこの国の極めて優秀と言われている政治家も学者も官僚も未来へのビジョンを国民に示す事が出来ない。ジョンを国民に示す事を許さない組織によってその事が阻まれているとしたら組織そのものを解体せねばなるまい。

一つの大家族の様な社会組織が必要になる

これからの社会は、経済的な成長をしなくてもあるいはマイナス成長でも、生き続ける事が出来る社会を、そして成長も発展も無い安定した社会い、わゆる定常社会を建設する事が、これからの世界の全ての国家の政治の目標とならねばならない。
経済の成長が止まる、あるいはマイナス成長になると、失業者が増大すると言うのが我々の常識で有り、実際に一定以上の経済的なプラス成長が続かないと、仕事をしたい全ての人々に仕事が行き渡らない仕組みに、現在の経済制度はなっている。 これが一昔前の我が国の農村でなら、今仕事が無くて遊んでいても、倉庫の中に食料の蓄えが有る限り、誰も生活に困らなかった。仕事が無く暇な時は仲間と無駄話をしたり、花札をして遊んでいればよかった。
現在人の様に細分化された専門的な仕事によって糧を得ている現代のサラリーマンと違い、人々は大地と分離されておらず大地から直接日々の糧を得る事が出来たからです。現代でも失業率が三割にもなり、社会保証制度の整っていない筈の開発途上国で、なぜ飢饉が発生しないかと云うと、まだ大家族制度が健在でこれが共同体の役割を果たし、仕事の無い人でも飢える事無く、生活が出来る所以なのです。
日本などの先進国では共同体も大家族制も崩壊した中で、年金制度や社会保証制度が、財政の硬直化で崩壊が免れないとしたら。職の無い貧しい人や老人は、生きる事が難しくなるでしょう。その中で貯蓄も難しくなるインフレ状態になったら、失業が直接に死活問題につながる事になる。
石油等の資源の不足で、運輸輸送等の社会の基本的な機能が機能しなくなり、食料やあらゆる資材が無くなって来るとしたら。政府にも貯蓄にも頼る事が出来なくなるとしたら、私達はどの様にして生きて行けば良いのでしょうか。
その様な時に誰も一人で生きる事は不可能な事です。一つの手段として一人一人の市民が団結して、一つの大家族の様な社会組織を結成して、お互いに助け合い生きて行く以外に、生きて行く事は出来ないでしょう。

私達が目指す社会は、大地との繋がりを保ちつつ、同時に高度な専門化されな業務も、遂行するような社会
私達が目指す未来の社会も誰もが昔の様に、この大地から離れず、生きるに必要な最小限の物資や食料やエネルギーを生産し社会保証の業務も行う。とれと同時に高度な専門化されな業務も、遂行する事が出来る様な社会の建設を目差さなければなりません。
こうする事で経済的な成長が止まり、あるいはマイナス成長になっても、資源の不足で社会の機能が、麻痺状態に陥っても失業も起こらず。人々は自らが参加する共同体が行う、高度な社会保障によって、失業状態になっても秩序有る豊かな生活を営む事が出来るし、年老いて働く事が出来なくなって、その時、国家破産によって国家からの年金や社会保障サービスを受ける事が出来なくなっていた、としても共同体が国家に代わって社会保障サービスを行われるので、共同体が有る限り生活の不安は無くなる。経済のマイナス成長が続き生活水準が現在の三分の一くらいの水準になったとしても、高度な文明を維持し続ける事が可能であると私は考えている。
豊かな先進国は現在の生活水準を半分から三分の一の水準に落とさなければ、大多数の人口を占める事になる開発途上国とのバランスが取れずこの地球で文明を持続する事が出来なくなる。先進国は急いでこの社会システムを構築する必要が有る。

この社会システムの初期の段階の社会が社会福祉共同体であり、地域社会共同体であります。
超高齢化社会への突入 西暦2015年頃その頃の日本は、全人口のうち六五才以上の老人の人口が四分の一近くの二三・六%を占めるようになり、寝たきり老人やボケ老人が三百万人を突破し三・七人で、一人の老人を養って行かねば為らなくなると予想されます。
その様な中で介護の必要なな老人の数は三百万人にもなると予想されいるのです。わが国は欧米先進国が百年以上もの時間をかけて高齢化社会を迎えたのに対して、僅か25年程度の短い年月で世界に前例のない、超高齢化社会を向える事になります。

各種資源が枯渇し産業基盤がマヒする中で政府が行う社会保障システムが崩壊する

これから失業は継続的に増大してゆく事が予想されており、失業は十パーセントを優に越えているでありましょう。金融機関の膨大な不良債権や、二千年過ぎには四百兆円にのぼる借金を抱え込む事になる。政府の財政赤字の問題等をこのまま放置し、この社会体制のまま超高齢化社会を向える事になるとしたら当然、年金などの各種の社会保証システムは崩壊する事は免れる事が出来ないでしょう。
それだけではなく事態はずっと深刻で、近い将来人口の増加で食料が不足してくる事は確実とみられ、それだけでなく石油の需給も逼迫しやがて枯渇するのは確実なのです。
環境の破壊等による難民や文明の末期の混乱はその極に達していると予想され、その様な中で政府が破綻した財政で社会福祉政策などに果たして力を注ぐ余裕か有るでしょうか。その様ななかで日本のように国土は狭く食料の自給率が極めて低く、資源も何もなく技術革新で経済を支えて来た国にとって、若い人の減少は破局的な事態を迎える可能性さえ有ります。このままでは老人達にのたれ死にの運命が、待ち受けているのは火を見るより明らかでしょう。

その様な事が許される筈が無い。私達は政府に有る程度の法制度改正を行ってもらい、政府に頼らず自ら参加し少しずつ時間を提供して、社会福祉活動にボランティアとして参加することで、問題の解決を計る事を考えており、党員には参加の義務あります。我が党が推進する社会福祉共同体とは、党の活動の初期段階で結成される社会福祉団体で社会福祉共同体はさらにそれらを内包しつつ、地域社会共同体へと進化する組織です。


地域社会共同体とはどの様な共同体か?

現代の社会は金儲けの組織の為の社会であり、組織の論理として有能な若い世代の人間ほど重用され組織に反抗する者やコースを外れた人間は冷遇されやがて組織から追い出される。現代程高度な技術や技能や経験豊かな知識や知識を持つ中高年の人々が軽んじられている時代は無かっただろう。

また地域社会共同体とは社会から冷遇され疎外された人々や長期失業者が中心になって知識や技術や技能や様々な経験や資源を持ち寄り、技術や技能の維持保存と若い世代への教育宣伝、コミニティ型の都市の建設の為の組織準備や相対通貨の実験や近い将来には国が行う年金や福祉の社会サービスの殆どは破綻するで有りましょう。
その様な時に国や市町村の社会サービスの代行や、エネルギーや食料をも生産し環境保護維持活動の中心となって活動し、お互い困った時には金銭を含むあらゆる助け合いをする互助組織で国や官僚を頼らず、心身の健康を損ねたり年老いた者達の扶助を行う組織で共同体の奉仕活動に参加しなかった者、金や組織の利益の為や法律や科学を盾に社会に害を成した官僚や知識人や偏向したマスコミ人や他人の迷惑をかえり見ず自分本位な生き方をして来た人や嘘を吐く人間には共同体が行う一切の社会サービスを拒否する。
その様な人は国からサービスを受けるべきです。

共同体における職業観

江戸時代以前の頃の山地や僻地や孤島での生活は豊かだった
日本の室町から江戸時代以前の頃の山地や僻地や孤島での生活する民は自給自足貧しい生活を連想するが以外に豊か生活を送っていたらしい。山地では耕地は狭く農作業も時間は掛からない。 農業は片手間に行う副業の様なもので、山では炭焼きや、木材の切り出し、等の賃仕事も多く有り、織物や紙鍬や桶や傘作り等の手仕事や、時には狩猟など様々な仕事が有った。身分制度は士農工商と大枠が決められ、世襲制が貫かれ、農民は移動が制限され、下人あるいは非人と呼ばれる、半奴隷的な人々が存在したものの、市民レベルではかなり、自由な豊かな生活を送る事が出来たらしい。
職域区分は、インドのカースト制の様に厳格では無く、曖昧で各職間の移動が、かなり自由に行われた様だ。山地では多くの人が、農業だけでなく、複数の仕事を持ち、生活の手段としていた。その為に狭い土地で、食料を自給出来ない者でも、十分生活する事が出来たのでした、その当時の、庶民の生活のレベルとしては、我が国は、世界でも最も豊かな部類の、生活水準だったと考えられている。また一人の人間が、複数の仕事を持っている為に、何かの都合で、一つの仕事が無くても、他の仕事でカバーすることが出来るので、生活全体に与える影響を、少なくする事が出来たのでした。

現代の社会では社会自体が、職業の専門家と分離を必要必要としている。

現在では社会システムの高度化と巨大化共に、職業の専門化と細分化が進み例え同じ部所の同僚であるとしても、その仕事の内容が理解出来ない様な事も間々有る。その為に、自分の専門分野にしがみ付き、他の仕事を理解しようともしない傾向も見られる。その為に一旦その仕事を離れたらたちまち無能な人間と化し、金と社会的な保証がない限り。生きて行く事も難しい事態に追い込まれるのです。その為に金や土地、といった生存資源に執着し、それが現在の文明の諸問題の源になってしまっている。
相場の世界に一つの篭に卵を盛るな、と云う諺が有るが、現在の文明と、職業の関係は明らかに、不自然なものである。現在の様な、単一の専門化した、仕事によって生業を得る事こそ、異常な事。人間は本来、どんな仕事でもこなす事が出来る、現在大学卒業が不可欠な、仕事されている分野の職業でも、中学卒の知識が有れば、十ね分こなす事が出来る。
それをさせないのは、社会自体が、職業の分離を必要としているからである。 それが貧富の格差の増大など、社会的な不平等と、犯罪等の多発や、社会的な差別を生み出す。ユダヤ日本や西欧プロテスタント社会では、労働を美徳とする社会風潮が有るが、肉体労働を忌避する傾向は、文明の歴史の長い国で、広く見られる傾向が有る。支配階級と、宗教の影響も大きいが、インドはカースト制、アフリカなどでは、西洋の植民地支配がもたらしたが面が多い。


現在の私達の社会の悲惨さは、仕事の効率を追求するがゆえに、卑しい仕事と、高貴な仕事、または肉体労働と知的労働とを、分離分別する所から来る。
職業での分離分別を、無くさない限り、社会的な差別や、悲惨さは無くならない。 仕事の効率を求め過ぎるのもよくない。人間は本来野を走り、獲物を追い、石や槍を投げ、木に登り木の実の採集に、都合が良い様に体は出来ている。体を使わない労働は不自然なものです。知的な労働だけだとどうしても精神や体にストレスが溜まり、様々な病気の基になる事が解っている。無論、体を酷使する労働も良くない。適当に体も使い、そして知的な労働もする、これが人間における、労働の本来の姿である。


共同体における労働

コミニティ型の都市とは、エネルギーを初め食料や生活に必要な基本的資源もリサイクルし、自給を目指す都市で、最終的な形態を私はバイオコミニティと呼んでいる。此処での職業は、賃金を得る為の職業と、共同体を維持運営する為の職業に大別される。賃金を得るための職業は、共同体都市内の企業や、役所に勤める事で、得られるのだが、共同体を、維持するための職業も、かなり多岐にわたり。大別すると、医療社会福祉部門、農業エネルギー部門、資源リサイクル環境維持部門、建設建造物維持管理部門、教育職業訓練修養部門等に分けられるだろう。
それぞれの部門には、共同体が雇うあるいは下請けとするマイスターや専門家と、マイスターに師事し専門家になろうとする者や、専門化の下で、様々な作業をする、ボランティアグループがいる、このボランティアグループは、相対通貨が、賃金の変わりに支払われる。共同体の住民は自分の専門とする、職業以外の業務に、週一度程度、ボランティアとして参加する、義務が有る。また専門とする職業が、知的労働の場合、体を動かす職業に、専門とする職業が肉体労働の場合、その反対の体を使わない労働に配属される。また複数の業務に付く事も可能で、共同体内では様々な、研究活動や、課外のライフワーク的な活動も、奨励される。
共同体では、専門的な仕事を持たなくても、共同体で奉仕的な業務に、週二日か三日程度参加すれば、基本的な生活は成り立つ様になっている。共同体での職業は、大体この様にすべきでしょう。土地は人だけの物でなく全生命の共有財産。 広い国土を持つアメリカでならまだ許せるとして。

その国土の七割が森林が占める世界でも有数の森林国であるが、その為に人が使える土地は少ない。その少ない土地に一億二千万もの人が住み、平野部では世界一の過密状態になっており。人が生活出来る土地が少ない。その上に戦後の経済の高度成長期には、工場の用地や道路等の社会的なインフラ整備などのために。土地の需要が増大した。政府の土地政策の不備と相まって、土地の値段は急騰し、土地神話が生まれ。 土地さえ持っていれば、必ず儲かると人々は思い込んだのである。
人々は土地を金儲けの為に売り買いし、都市では何百平方キロものもの土地を、掘り返しアスファルトで覆いその土に生きる無数の命を虐殺する。数え切れないほどの命が、何百年もかけて何千何万年もかけて、集積して来た貴重な資源を、地中深く二度と生物が使えない所に閉じこめてしまう。
地上に有れば人間を含め、どれ程の命がそれを使う事が出来るだろうか。わが国における経済の高度成長もおわり。土地神話のつけは巨大なバブルとなって弾け、民間と個人を合わせると数百兆円にものぼる不良債権となり、国の経済と屋台骨揺すっている。自然からの強烈なしっぺ返しとも言え無くもないだろう。

将来の土地の利用法

土地はこの地球に住む全ての生命の共有財産

、人間だけの物ではない。自分が所有する土地であっても、勝手に処分出来る物では無い。現在の社会の混乱と危機の源は人間が大地を離れ、生産と消費の分離から生み出されたもの。人類は都市化と土地の私有制で歩むべき道を誤った。
もう二度と誤りを繰り返す事は許されない。アメリカのユタ大学での研究によると、人間が一人分の食料の生産に必要な最小の面積は、十五平方メートルで生産できるそうで、単純計算で九万平方キロの土地が有れば、現在の世界の全人口を養える事になる。
本来なら人類がこれ程広く農地や牧草地として土地を占拠する必要は無かった。これからは食料の生産システムの改革で、人間が占有する土地の面積を、その極限まで少なくするのが人類が進むべき道であり、余った土地は自然へと返す努力が、これからの人類の課題となる。
その為に私達には土地や、そこに生きる動植物に対する、新たな価値観と制度の構築と整備が必要になるだろう。将来は国では無く共同体が、都市でも農村でも土地の管理運営、そして自然への復元の要となって活動するだろう。

土地を持つ事は生態的社会的に責任が伴う事。その責任をまっとう出来ないなら土地所有の資格はない

1、都市で利用されていない土地を、共同体が借り受けエネルギーや食料の生産の為に使用し、山間僻地等の条件の悪い農地や、管理の行き届かない農地や山林を、可能な限り共同体が借り受けたり。可能な限り自然状態へ戻してやる。

2、全ての生命の共有の財産たる土地の所有する人には、所有の世襲制の為の税制や土地を持つための資格条件を設ける等様々な制限を設け、将来土地は公有か、共同体が所有するような方向に、向けなくてはならないだろう。


近い将来広い土地を必要とする形態の農業や牧畜業を放棄しなければならない。

ギリシャ、イタリアなど古くから文明の栄えた地域は、山に樹木は殆ど無く有っても背の低い灌木がまばらに生えているだけで、荒涼とした大地が延々と続いている。三千年前憂そうとした密林だった。過去に奴隷を使った、大規模で収奪的な農業が行われ。豊かだった植生は、都市の下水と共に流れ去った。ごく最近まで植林と云う概念は、これらの地域では存在しなかったが、我が国では千年も前から、植林が行われている事は世界に誇れる事です。
今でも世界の多くの地域で、利潤を目的とした大土地所有制による、農牧業が行われている。ブラジルでは四国ほどの面積の土地を持つ大地主がいる。都市に大邸宅を構えて住み、代理人が牧場を管理しとして、飛行機で見回りをしているという。
多くの人々が潜在的この様なファゼンダの生活に憧れ、牧場を持ちたい夢を持っている。それが森林への絶えざる圧力となり、毎年四国ほどの面積の熱帯雨林が消滅している。貧しい都市の住民がジャングルに入り開墾するが、数年で地力を使い果たし作物が収穫出来なくなり、結局その土地は大地主に売り渡され牧場にされ、また新たにジャングルを開墾する事になる。
しかし牧場も放牧による家畜の生産の為に、生産性は低く土地から収奪するのみで何も返さない。大地は地力を使い果たし、何ものも生み出さなくなる。そして生命の揺り籠となるべき土地は、消耗品の如く扱われ、利益を産みださ無くなるとゴミでも捨てるが如く放棄される。その後はラテライトの赤茶けた、不毛の大地が残るのみとなる。これが現在のアマゾンの、熱帯雨林で行われている事です。
そしてこれらの土地で生産された牛は、アメリカや日本等の先進国で、ハンバーグとして食べられている。中国や東南アジアの人々の所得の向上共に、これらの地域でも何れ食される事になり、アマゾンの熱帯雨林へのさらなる圧力となるだろう。 南米やアメリカ中西部の、大規模な農業や牧畜は、収益を目的として行われている農業であり、生産地と消費地は遠く離れており、肥料や農薬が投入される事は有っても、そこから持ち出された物質が元に戻る事は無い。

わが国に森林が残った理由

その為現在どれ程豊かな農地であろうと、やがて地力は衰退し、作物は収穫出来なくなりやがて、放棄される事になる。古代文明の地やギリシャ、ローマで起こった事を繰り返す事になる。日本は国土の七割近くをを森林で覆われている、世界でも有数の森林国であります。昭和の三十年頃まで我が国の農山村の人々は、山林と深く結びついた生活を営んでいた。
山間に集落を作り畑や棚田を耕し、炭を焼き山仕事をしたり、木の実や山菜を採り川魚等を貴重なタンパク源として、半ば自給自足に近い生活を営んでいのでした。山はまた柴を刈り、それをたい肥として、畑や田んぼに鋤込んで肥料としたり、住居の為の資材の供給源として、欠かせないものでした。
山は個人の所有ではなく、藩有林や地域の共同体の所有となっていた。厳しい入り会い制度による、秩序有る利用によって、山の再生産能力を維持しながら山を利用してきたのです。
牧畜が発達しなかった事も、中東地域や西アジアや北アフリカや南ヨーロッパと違い、豊かな山林が残った理由でもある。


土地私有制の導入ともにわが国の森林の荒廃が始まった

それが明治になって山林は欧米に習って私有制となり、それと共に入り会い制が消滅し、山林はそれまでと質的に変化し、財産や金儲けの対象として、扱われる様になった。それでも山村での生活は戦後迄それほどに変わらず、農作業の暇な時は炭焼きその他の桶づくりや傘作り手仕事をして生活をしていた。中国地方で最盛期の戦後間もない頃、一戸平均で四六〇俵も生産され、収入は十三万円以上にもなり炭焼きによる収入は、当時の町長さんや学校の校長先生の収入より多かった言う。
炭焼きと言う収入の良い副業が有ったから、生活条件の悪い山村の共同体も維持出来たし、食料を自給出来ない小さい農家でも、十分に生活が出来たのでした。(ただその事で我が国では戦中戦後の一時期、山林の樹木は失われ禿げ山なった。
その後植林され現在に至っている。)それが安い石油とプロパンの普及により壊滅的打撃を受け、さらに安い輸入木材によって、山村での生活は困難になり、経済の高度成長と共に離農し都市への移住や出稼ぎで生活を支えざるを得なくなった。
その為山村では急速に過疎化が進み、自治組織や相互扶助の組織が崩壊した他、若者は都市に出てしまい、農業は後に残った家族のみで細々と続けられてきたが、残った家族の高齢化共にそれも不可能になり、山村の共同体は崩壊した。かって農地だった所は杉や檜が植林されたが、高齢化共に維持管理が出来なくなって来たのでした。
家業の農業を継ぐ為に農村に残った若者にも嫁の来てが無く、それが過疎化は拍車をかけている。平野部の豊かな農家でも、若い人は殆ど勤めに出ており、町では土建業者のみが増加し、商業やその他の産業は衰退して見る影もない。 かなり賑やかだった町も老人ばかりとなり、寂れて閑散としている。
世界を一つの経済とする、市場経済の大波に巻き込まれて、山村や過疎地の地域社会全体が崩壊し始めている。ほんの三十年前まであれ程豊かだった自然の山は、手入れの行き届かない杉や檜だけの山となり昼なお暗く、下草も生えず、表土は雨で流され、小鳥の鳴き声も殆ど聞こえない。
川はコンクリートの護岸ばかりとなり川底には砂は少なくむき出しの岩石のみが目立ち、三十年前と比べると川魚の種類も生息数も、格段に少なくなっている。山村の生態系の貧困化による影響は、そこだけ止まらず海の生態系にまで及んでおり、沿岸漁業の不振や磯焼けさらに、砂浜が波に洗われ消滅している。
この様に人々が豊かさを追い求めた代償は身近に見られる事から、地球的な規模にまで及んでいる。 来世紀の中頃には我が国をはじめ、世界の大都市は維持出来なくなるだろう。


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